中国語で人生が変わった!けんたのプロフィール

自己紹介

大家好!けんたです。

このブログでは、

偏差値30台、
一浪一留の筋金入りの勉強きらいが

中国語で人生180°好転させた
ストーリーをご紹介します。

勉強大嫌い!

継続なにそれ?

中国?どこそこ?

だった私が、どうやって中国語を上達させることができたのか。

ぜひ、ご覧ください。

けんたってなに者?

現在都内在住の31歳。
二児のパパをやっております。

前職は国家公務員で

国際捜査官という

変わった仕事をしておりました。

守秘義務があるので多くは語れませんが、

北は北海道根室市、南は沖縄県石垣市まで
日本各地を飛び回っており、

主には国境警備や密輸・密航などの
取り締まりを行っておりました。

約4年前に職場から

「東京に来るように!」

とお達しが来たため、

今までは裏方の仕事メインでしたが、
東京にきてからは

サミットの運営をしたり、

各国に派遣している外交官との連絡調整、

各大使館との連携等表向きの仕事に
従事しておりました。

2年半前に脱サラして、
今はフリーランスで活動しております。

中国との出会い

中国語と初めて出会ったのは、
大学生の時の第二外国語でした。

中国語以外にも、

韓国語、ロシア語があったのですが、
中学生の時に三国志に大はまり以来、


真三國無双や旅行でも
中国に行った事があったので、

3つの中だったら中国語にしようかな
くらいの軽い感じで選択をしました。

中国語を選択したのはいいのですが、


元々頭の悪かった自分は
何とか単位をとるのが精いっぱいの

ギリギリのラインで中国語を
勉強しているくらいでした。

なので、この時はまさか自分が将来


中国語で世界を飛び回っているなんて
思いもよらなかったです。

なぜ、国際捜査官に?

今でこそ、元国際捜査官です!

と胸を張って言えますが、
昔の自分は

偏差値30台、浪人はするし、
留年はするしで、

本当に勉強きらいの学生でした。

楽しいことがあれば、すぐ遊びに行って
しまうような学生だったので、

大学卒業は入学時期が一緒の同期よりも
一年遅く卒業することになりました。

なんとか卒業して、
現場で働くことになったのですが、

前職が国家公務員ということもあり、
全国転勤を強いられる職場であったため、

自分の行きたい都道府県を
上司に書く必要がありました。

私の実家が兵庫県で
妻が広島県出身だったので、

瀬戸内海周辺を第一希望にして
いたところ、言い渡されたのは、

けんたくん、君の最初の赴任地は
北海道根室市である。

?????

根室ってどこ?から始まり、

グーグルで調べて初めて
ことの重大さに気づきました。

実家からめっちゃ遠いじゃん!と。

初雪国、初北海道ということもあり、
急いで某UNIQL〇へ行き

超極暖や冬服を買いそろえ、
冬季の平均気温マイナス5度になる、

極寒の地「根室」に
向かうことになりました。

根室での生活はどうなるのだろうと
心配しておりましたが、

住んでみると都で、お魚は美味しいし、
自然豊かで空気も美味しい、

都会の喧騒に疲れていた自分にとっては
過ごしやすい地でありました。

第二の転機

根室に来てから3か月後に
転機が訪れました。

自分の人生観が変わる大きな事件が
二つ起きました。

一つ目が、自分の手の中で人が
亡くなったことです。

今でも忘れませんが、
ある冬の朝方3時半ころ。

就寝中に一本の電話が鳴り響きました。

電話に出ると、上司から

「行方不明者がいるので
至急捜索に向かうように」

という電話でした。

急いで準備をして向かったところ、
どうも海中転落の可能性があるため

海岸沿いを捜索するように
上司から伝えられました。

そこから海岸沿いを捜索していると、
テトラポットの合間に赤い服を着た人が

うつ伏せで浮いていたので、
まだ3月の極寒の海でしたが、

気にも留めずに海に飛び込み
陸に引き上げました。

その後、心臓マッサージを
おこなったのですが、

最後まで息を吹き返すことがなく
帰らぬ人となってしまいました。

ほどなくして、旦那さんが到着するや否や

亡くなった奥さんにしがみつき大声で
泣いているのを見て、

果たしてこのままの人生でいいのだろうか
と考えるようになりました。

もう一つの転機

事故があってから、翌月。

もう一つの転機が訪れます。

それが、池袋での高齢者による、
母子の死亡事件です。

当時、妻が身ごもっていたので、
私は単身赴任をしていました。

事件の被害者の方と年齢も
ほとんど変わらず、

子どもがいる状況も似ており、
自分の人生に重ねてしまいました。

もし、自分がこのままずっと単身赴任で

その間に妻や子どもたちの身に何か
あったらどうしよう。

一緒に家族と住みたいのに、

自分の成績が悪いあまり
出世街道に乗れずに

希望通りの人生に
ならなかったらどうしよう。

色々な気持ちがこみあげてきて、
ついに私は、

「本気で人生を変えよう!」

そう決意しました。

先輩との再会

とはいえ、人生を変えようと決意したとき

何をしていいか全く見当が
ついておりませんでした。

そんな時に、とある先輩と
話をする機会がありました。

その先輩が私に人生を変える
キッカケをくれた方です。

先輩に色々と相談したところ、

自分はいま台湾の留学から帰ってきて、


東京の霞ヶ関で外務省の研修を
受けている。

自分も元々成績が良くなかったが、

大学の時に学んだ中国語を
もう一度学び直したところ、

既存の出世コースを外れて、


外交官となるコースに
自分一人だけ乗ることになり、

今は全て希望通りの部署についている。

再来年は、上海の領事館に行く予定だ。

こう話してくれました。

素直に、

「かっこよすぎる。」


「自分も同じように自分の人生の
選択ができるようになりたい」

と思うようになりました。

中国語を話せれば、

今まで学校の成績で同期と
差をつけられていたけど、

別の角度から差別化できるかもしれない!

外国で働けるようになれば、

子どもたちに外国語を教えれる
環境を提供できる。

などなど、

自分にとってのメリットが
たくさん出てきました。

チャンスが転がっているのに、

今挑戦しないと一生後悔する。

そこから、本格的に中国語の勉強を
開始しようと決意しました。

国際捜査官時代

いよいよ中国語の勉強が
スタートしました。

目標は先輩のように外交官に
なることだったので、

まずは外交官になるための
登竜門であった、

「国際捜査官研修」

というもの応募しました。

私が所属していた組織の人数が
約15,000名いたのに対して、

中国語の国際捜査官研修の切符を
手に入れる事が出来るのは

全国からわずか
10名しかいませんでした。

超が付くほど狭すぎる門でしたが、

応募がかかるまで上司に
猛アピールすることで何とか

上司に推薦してもらい、研修生の枠を
手に入れる事ができました。

そして、研修生になると、

朝6時半に起床して、
夜中の1時まで勉強する

ハードモードな勉強が待っていましたが、
自分の目標を達成するために

わき目も触れずにやり続けました。

そして、中国語の勉強を始めて4カ月、

力試しで受けた中検3級とHSK4級を
同時受験しどちらも9割越えで合格し、

2か月後に受けたHSK5級も一発合格。

研修を卒業するころには、

中国人と電話で会話するくらいの
レベルにまで到達していました。

そこから、自分の希望通りの
職場へ転勤し、

中国や台湾の出張などグローバルな
仕事に就くことができました。

中国語で得た経験を誰かに届けたい

このように、私は中国語を通じて、
たくさんの経験をしてきました。

中国語を通じて学んだことは

四声や文法、リスニング力や
スピーキング力だけではありません。

勉強法や勉強を継続するための

メンタルコントロール

目標設定の立て方

目標を達成する方法など

多くのことを習得できたと
心からいえます。

私が中国語で人生を変えていけたように、

この記事を読んでくれている

中国語を学びたい!

中国語を使ってビジネスに活かしたい!

と思っている方に、今まで経験して
学んできたことを全て届けていき、

同じように悩んでいる方の
一助になれればと思っています。

世界へ羽ばたいていく、

そんな方が僕の記事や僕の経験から
生まれてくることが

僕にとっての何よりの願いであり、
夢であります!

これからもたくさんの情報を
お届けしていきますので、

皆さん楽しみにしていてください。

コメント

タイトルとURLをコピーしました